私とワラ草履

 第二次世界大戦太平洋戦争で、大阪市内の生まれた家を戦災で焼け出され、終戦は貝塚市の疎開先で迎えました。(こんな言葉もだんだん聞かれなくなりました)
 
 その後、両親の出身地、
大分県津久見市へ引き揚げ、田舎での生活が始まりました。大阪市内では近所の制服制帽で通学する小学生が革靴を履いていましたが、私たちその他大勢は運動靴でした。田舎ではほとんどがワラぞうり、「疎開っ子」とはやされ「いじめ」にあいました。
 
 村に不幸があると近所の人が総出でお葬式の用意が始まります。女性たちは石臼で大豆をすり、豆腐や油揚げも手作りで精進料理にとりかかります。

 
 男たちは、竹と木でお骨拾いのおハシや、死者と野辺送りの人が履くぞうり作りを始めます。小学4年生だった私はワラを叩いてやわらかくするところから、見事な手つきでぞうりになっていく一部始終をあきもせず眺めていました。鼻緒に白い和紙をないこんだ、普段とは違うぞうりが次々と出来上がっていきました。

 
 ぞうり作りは誰も教えてはくれませんが、こうして見様見真似で覚え自分で履く分ぐらいは作れるようになりました。

 
 下の写真は今年(2000年)町内会のお花見会で、初めてぞうり作りのコーナーを設けた時のものです。

 
 お年寄りや子どもたちがどんな反応を示すか楽しみでした。お年寄りは一様になつかしがり、出来たぞうりを孫にとか魔よけにとか言いながら、とりあいになり後日とどけるからと予約までいただきました。

 しばらくして子どもたちが「教えて」と集まってきました。最後まで熱心にとりくみ「出来たぁ―」と大喜び。コーナーを設けて本当によかったと思いました。
       
           
お花見会ぞうり作りコーナー(2000/4/10)


2003/10/25〜26出品


地域の文化祭(2000/11/3〜5)に出品

2001/10/20〜21出品


01年 夏休み工作教室で


お花見会ぞうり作りコーナー(2001/4/8)
(02/6/1)バザー会場の公園で

    ぞうりにまつわる思い出など何でもお寄せください。
      



 (01/4/29) 私にも忘れられない草履の思い出があります。
 
 昭和20年5月、小学校6年生の時米軍機の空襲が激しくなり、大阪から島根県の
山奥の寒村へ同級生約30人と共に集団疎開しました。 出発前、母が買ってくれた
靴は、一見革靴のように見えましたが、雨の日に履いたら溶けてしまいました。 な
んと、ボール紙製だったのです。 因みに講談社、平成10年2月24日号の、“日録
20世紀・1938”には、このころからいろいろな物が代用品にとって替えられた、
と言う記事が載っています。 敗戦直前のこの頃にはおそらくその靴も紙と糊で
出来た物だったのでしょう。

 疎開先では、4,5人のグループに分かれて農家の手伝いや背負子(背中に負う
籠)を背負って農家へ食料をわけてもらいにいきました。  そんなときはほとんど
裸足でしたので、見かねた農家のひとが藁草履を呉れました。 見よう見まねで、わ
れわれ子供達も草履つくりをしましたが、不器用だった私は縄をなうことが出来ず、
うまく草履が作れませんでした。

 濱田さんのHP「ぞうりとわたし」を拝読して、私も少年期のことを思い出して
メールを書きました。
                                    

 (01/4/12) 私も、国民学校2年生の時、単身で縁故疎開による父方の伯母の家(三重県志摩半島)での生活や、 その後の静岡県浜松郊外における疎開生活を思い出しました。
伯母にはわらぞうりの作り方を教えてもらったことがあります。
浜松郊外は、兄の勤め先があったというだけの、全く縁もゆかりもない土地でしたが、 家族で私だけが「わらぞうり」生活でした。
父母や姉は靴や下駄で生活していました。

水田がないので、私の家では、お店で買っていました。
ここでは、学校の授業でわらぞうりの作り方を習いました。
土地の子供たちは、
ぞうりのつくりやすい新しい長い藁をもってきていましたが、
水田をつくっていない私の家では適当なものがなく、丈の短い古いものを近くの農家で分けてもらいましたが、 素材が悪くうまくできなくて悔しい思いをしました。   

 (01/1/17) ぞうり、とても素敵ですね。なんかインテリアとして飾ってもいいですね。
 ぞうりをみて喜ぶ子供たちと、それを微笑んでみているHさんの姿が目に
浮かびます。今度ぜひ注文させていただこうかな・・・。

 (00/8/30) 私は「ゾウリ」について、多くの思い出があります。
小、中学生の頃、川で、アユ釣 りするときの、スベリ止めとしての「アシナカ」というゾウリ、大きさは半分でかか とのないゾウリです。
 また、冬、山の炭焼小屋え行くときのワラジも自分で作りまし た。
 遠き日々の記憶が懐かしくよみがえり、この秋にも久しぶりで新潟の、古里の山川 を訪ねてみようという気持ちになりました。ありがとう。 頑張って下さい。

 (00/8/5) ホームページ開設おめでとうございます。 今の時代にほのぼのとした、とてもHさんらしい(ごめんなさい、えらそうに)ホームページですね。 このネットでHさんの暖かい輪がどんどん広がることを祈ります。 ページを拝見して私の祖母が、げたや草履の鼻緒をすげかえたり、 一度わらぞうりを作ってくれたのを思い出しました。 どんどん昔の事を忘れていっていることを感じました。 私も子供にむかしのことを少しでもたくさん話していきたいと思います。
私と住まい
1935年4月 大阪市旭区大宮町で生まれる。
入学だけ 大宮西小学校
小学2年 縁故疎開で貝塚市のお寺へ(父の兄が住職)

小学3年 腸チフスで大阪桃山病院、退院後学童疎開先三島郡三島町へ合流
小学4年 戦災で貝塚市のお寺へ 終戦後両親の出生地大分県へ引き揚げ、
       母方の2
階住まい
中学1年 父方(隣の集落)の世話で小さな一軒家
1954年 大分県立臼杵商業高校卒業 大阪市役所就職
      実姉宅(大阪市西淀川区)にしばらく居候後池田市石橋で下宿
1959年 両親と大阪市西淀川区で同居
1960年 結婚 西宮市で中古住宅購入
1964年 9割借金で上下別の家に改築、借金返済まで2階を貸す
1995年 阪神大震災で全壊
1996年 退職金で再建現在に至る。
※いつの日か、なぜ、米軍に家を焼かれたのか、から書きあげたいと思っています。